先日、独立記念日の歴史を調べる中で
チラリと登場したのが「U WISARA」の名前。
道路の名前にもなっています。
ミャンマーでは
ボージョーアウンサン通り
日本語 で アウンサン将軍通り
とか、道路の名称に
人の名前を冠する事があります。
私の家は、U WISARA 通りから
少しだけ入ったところにあるので
とりわけ馴染みある名称です。
多くのミャンマー滞在者にとって
U WISARA の名前は馴染みがあるかと。
しかし
U WISARA とは 何者なのか?
に興味を持ち調べた事のある人は
あまりいないのではないか、と。
それでもミャンマー滞在者の多くが
耳にしたことのある名前
なのではないか、と。
そこで
U WISARAとは何者なのか?
ってところを掘り下げてみました。
ちなみに、U は 敬称であり
日本語でいう「◯◯氏」的な感じです。
Wikipedia 英語版の情報を元に
日本語訳 をしています。
https://en.wikipedia.org/wiki/U_Wisara
【U WISARA とは?(概要)】
1889年に生まれ、1929年に亡くなった僧侶。
反植民地主義の演説を行った罪で
2度にわたって逮捕された。
刑務所内で
僧侶の袈裟を着る事を禁じられ、
囚人服の着用を命じられるもそれを拒否し、
ハンガーストライキ
(※断食によるストライキ。以下ハンスト)を敢行。
2度目の刑務所生活において
166日間のハンストの後、獄中で死亡。
はじめての殉教者として死者として知られる。
彼のハンストは、
ミャンマーの群衆を動かし
初期の独立運動を後押しした。
ヤンゴンの大通りの1つには
「ウーウィザラ」の名前を冠した道路があり
記念碑も建てられており
今日も偲ばれている。
これが概要である。
ざっくり、どんな人なのか?
わかっていただけたのではないだろうか。
独立運動を後押しした人物の1人なのだ。
これは、超ざっくりした説明。
もう少し詳細を知りたい人は下記をどうぞ!
ウーウィザラとは?(詳細編)
【若かりし頃】
ザガインの小さな村で生まれ育つ。
姉と弟の3人兄弟で
本名は ラーチョウ(Hla Kyaw)。
同年代の多くの少年と同じように
地方の仏教寺院(インナ僧院)で教育を受ける。
12歳で、ウィザラの名前で見習い僧に。
4年後には、僧侶の道を離れ、地域活動に積極参加。
頭角を現し、コミュニティー内で若手指導者として
認められる存在になる。
18歳でお見合い結婚し、娘も生まれたが
娘が生まれた 3ヶ月後に 離婚。
その後、幼馴染のテーミンと再婚。
彼女はヌエという子を産んでいる。
【僧の道へ戻る】
Hla Kyawの人生は満たされたものではなかった。
彼は休暇を取得し、サリンギの町の近くにある
ティンタン僧院で3ヶ月間の僧院生活に入る。
休暇の最後で、
僧侶になることを決意し、両親や妻に許しを請う。
許しを得た後、1912年に
23歳で見習い僧時代の ウィザラ の名で
ボンピャン僧院で僧侶になりました。
その後の10年間は、
上ビルマ(ピンマナ、マンダレー、パコック等)で
文法、パーリ語、上座部仏典を
様々な人に師事しながら学びを深める。
この期間中、ピンマナのカン・ウー僧院や
パコックのマハ・ウィトゥダラマ僧院の
僧院学校で指導にも携わっていた。
その後、2年間ほど
サンスクリット語とナーガリー文字を学ぶため
インドに渡る。
【政治活動】
1920年代、ウィザラは
初期の国の独立運動の中で
徐々に活動的になっていった。
彼は、インドからパコックへと
地方の僧侶協会の執行委員メンバーになるべく
戻ってくる。
1923年、反植民地主義の演説を行ない、
過去に一度、投獄された経験を持つオッタマ氏に出会う。
ウィザラもまた、
旅をしながら演説をはじめ法的なトラブルに見舞われた。
【最初の刑務所滞在】
1926年、タラワディー地区における
違法演説を通じた扇動の罪で、
1年9ヶ月の刑務所行きの判決を受ける。
刑務所内では、当局から
袈裟を脱ぎ、囚人服を着るよう命じられたが
ウィザラ氏は、それを拒否。
インド人の刑務所警備員は
(当時、インドは同じくイギリス植民地下)
袈裟を脱がせることはせず
イギリスの警官自ら、強制的に脱がせた。
彼は、着衣を許されるまで
飲み物や食べ物を摂取することをこばむ
ハンストを敢行。
刑務当局は、繰り返し拷問を行なうも
彼は屈することはなかった。
ハンストに突入して40日後、
刑務所の当局は遂に折れ、袈裟の着用を認める。
その後、西ベンガルの
ミドナープル刑務所に彼を移す。
その後、2019年 2月 29日に釈放。
【2度目の刑務所滞在】
自由な期間は非常に短い。
釈放後、すぐに政治活動の舞台に再び参加し
(現 ヤンゴン管区内の) トンワ近くの村で
反植民地主義の演説を行い、扇動の罪で
再び逮捕され、6年の刑務所行きの判決を受けた。
はじめの刑務所生活の繰り返しかのように
ウィザラは、脱衣を強いられたため
1929年4月6日から、再度 ハンストに突入。
今回、ストライキが敢行されていることは
世間でも報道され、注目を浴び、
その注目度は高まりを見せたが、
刑務所当局側は態度を変えることはなかった。
ストライキに突入して4ヶ月が経過した
1929年8月17日
何人かの上位の僧侶は
刑務所内にいるウィザラを見ることが許された。
彼は、袈裟を着ることが許されるなら牛乳を飲み
安息日に断食が許されるなら食べ物を食べる
との条件を繰り返し
それが叶わないなら、と、死ぬ覚悟もしていた。
しかしながら英国当局は対応を変えなかった。
そして
1929年9月19日 朝8時20分。
ハンストから166日目の朝に死亡した。
刑務当局の担当者は
翌日の 朝3時に、僧侶の身体を
チーミンダインの僧院にひっそりと置いていった。
【彼の遺したもの】
予想はされていたものの、彼の死は
やはり、国全体に大きな衝撃を与えた。
彼の戦いに対する、公的な支援も盛んに行われた。
殉教者として
シュエダゴンパゴダ西広場にて火葬と埋葬がなされました。
以前は知られていなかった僧侶の究極の犠牲は
これまで政治に関心のなかった多くのミャンマー人を動かし
初期の独立運動を推し進めました。
彼は独立運動の殉教者となりました。
ヤンゴンの主要道である ウーウィザラ通り
ヤンゴンのウィザラ記念碑 には
彼の名前が遺されている。
死に至るまで
ハンガーストライキを行ない、
国全体に大きな衝撃を与えた。
それがウーウィザラ氏なのです。
彼の強い意志が、その後の
ミャンマーの独立に繋がっていった。
と、考えられているのです。
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