管理人 桂川 融己
わかりやすく紹介いただいている記事がありますので、参考までに。
(前編)
海外勤務経験なしの大手企業社員が、いきなりミャンマーに移住するまで―桂川融己(ライター・企業支援)
https://next.rikunabi.com/journal/20180607_d01/
(後編)
大手生保の総合職からミャンマーのベンチャーへ―海外経験なし・英語は苦手でもアジアで活躍できた理由とは?
https://next.rikunabi.com/journal/20180621_d01/
簡単な経歴とやってきたこと
2019年 12月現在 フリーランス。
ミャンマー滞在6年間での実績。
・ライターとして、ミャンマー発ビジネス誌の執筆・編集
主にインタビュー対応(50名超の実績)と撮影 及び 記事執筆
・日系企業の進出コンサルティング、アドバイス業
・ミャンマー市場調査(リサーチ)
・ミャンマー視察アレンジ・アポ取得
・マーケティング支援業務(インフルエンサーマーケティング等)
・写真&動画の撮影・編集
・セミナー講師(大学向け、進出企業向け 等)
・イベントの企画・運営
・インターン仲介・ミャンマー就職相談 等
※若干のミャンマー語と英語で対応。
2013年12月末
日本生命保険相互会社を7年9ヵ月の勤務後、退職。
日本生命では、業務管理、イベント企画・運営。
情報発信、全国研修の企画・運営、資料や冊子作成など
広く営業管理職教育に携わる。
2014年1月
ミャンマー・ヤンゴンへ移住。
日系企業を顧客とするミャンマー最大手日系人材紹介会社で勤務。
人材採用の支援、大学でのセミナー、ミャンマー人材の特徴を学ぶ。
2015年12月末 2年の勤務の後、同社を退職。
2016年1月 フリーランスへ転身。
ミャンマー滞在の経験や知識をもとに、顧問業務などを担当。
ミャンマーだけでなく、ASEANにも幅広く人脈を形成。
生い立ち
岐阜県益田郡(現 下呂市)萩原町にて
1人の姉と年子で、長男として生を授かる。
「己(おのれ)を融かして、人の役に立つ」
そんな人間に育って欲しい、という親の想いを受け
融己という大切な名前を授かる。
幼少時代
・やかんのお湯を半身に浴びてヤケド(らしい)
・道路の真ん中で爆睡(してたらしい)
・小学校低学年までオネショが止まらず。(恥)
・外にあるトイレに行くのが恐くて、
いつもお婆ちゃんについてきてもらっていた。
・姉の友達と遊ぶことが多かった。
(イトコも当時は、女性2人のみ)
萩原町立萩原小学校に入学・卒業
小学校1年
・小学校1年の時、国語の授業中に笑いが止まらなくなり、
友人と2人で廊下に立たされる。
小学校2年
・小2時代、国語の授業に出てきた「豆太」があだ名になる。
小学校3年
・サッカーをやりたかったが、少年野球。
守備位置はセカンド。身体が小さく野球は苦手意識があった。
・身体が小さくコンプレックスを感じていた。
・ずっと「か・ゆうき」と呼ばれる。単純過ぎ。
(学年にもう1人の ゆうき がいて、彼は な・ゆうき。笑)
小学校4年
・軽く、いじめられていた。
一度、校内を走り回る大喧嘩をした後、いじめは自然解消。
小学校5年
・学級委員を務める
クラスの意見を伝えられず、学級委員失格の烙印を押される。
人の意見を伝えない事はいけないことと、身を持って知る。
小学校6年
・皆勤賞をもらう
学年で1番小さい自分と、学年でデカい2トップと並んで登壇。
おじぎして、起き上がった時に、来賓(校長)含めみんなに笑われる。
ちなみに、3人並んだ真ん中が自分。
萩原町立萩原南中学校に入学・卒業
中学校1年
・卓球部に入部したかったが、ソフトテニス部に入部
初めての郡大会で2位。地区大会も2位。
中学校2年
・テニスでは、ひたすら2位を繰り返す。
一度3位に転落し、凹む。
中学校3年
・本気で競馬のジョッキーの道を探る。
が、基本は「英才教育」組と知り、断念。
(後に、後輩がその夢を叶える!)
・体育祭で副団長。
学年で1番小さい身体でデカい旗を持つ。
・高校受験
高校選び。結構明確なビジョンを描いていたため
推薦で進むつもりが親の反対もあり、別の進学校へ。
今、思えば親に大感謝!
・小学校に引き続き、皆勤賞を受賞
ここは背の高い同級生と2人。またも笑われる。
当時、彼は187センチ。私 155センチ。。
岐阜県立斐太高等学校に入学
・中学から続けてきたソフトテニス部に入部。
1年からレギュラーで活躍。
・地区大会で団体戦優勝を果たす。
(地区内に競合校があるため、前にも後にも、我々の代のみ?)
・地区大会で念願のダブルス優勝も達成!
しかし、県大会では毎回すぐに負ける。
・一度、地区大会で人生初の初戦敗退し、泣く。
3位以下になったことなく、屈辱だった。
・文化祭は
2年:映画「スクールジャック」
3年:演劇「バトルロワイヤル」
いずれも中心メンバーとして奮闘。
・体育祭では、幹部の一員として3年生では白の短ラン着用。
太鼓で応援のリズムを牽引(?)し、応援合戦で優勝!
・数学が得意だったため理系に進む。
1年の頃は先生にも可愛がってもらったが
なんせ勉強をしなさ過ぎて、落第生の烙印。。笑
・はじめての物理のテストで24点。
完全なる苦手意識が生まれる。
クラス内で赤点4人。のちに3Kと呼ばれる。。
※赤点組の1人は、今 物理の先生してます。笑
・当時のとある出来事がきっかけで
「年収1000万稼げる男になろう!」
と思い、その言葉が頭に強く残り
年収1000万を強く意識し、文系を選択。
・年収1000万円から逆算して職業選択
将来は、会計士か税理士を目指そうと
経済学部・経営学部・商学部に的を絞る。
・先生の「お前は経済がいいんじゃないか?」
この一言で「経済学部」を選択。
・私立はことごとく落ちて
後期で神戸商科大学のみ合格。数学で稼ぎました。
先生に報告したら、一言目は
「お前、留年はせんのか?」
「しません!」とお伝えし大学入学。
今、思えばその選択肢もあったかも?
神戸商科大学 商経学部 経済学科入学
・人生初の一人暮らしスタート。
・硬式テニス部に入部しようとするが
飲み会がきつくて入部を辞める。
・しばらくは、学生らしく遊びつつ、ウダウダするも
秋にソフトテニス部に入部。やはりテニスが好き。
・2回生の春からレギュラー。
ダブル後衛やシングルス等も経験。
・基本は、切り込み隊長として出場。
・3回生の秋には、格上のあと少しで勝てそうだった試合に
負けて悔しくて泣く。想いが強かったんだろうなぁ。
・入部時に、関西リーグ5部だったが
先輩・同期・後輩とメンバーにも恵まれ
引退直前には、3部昇格を果たす!
・学園祭では2年連続友人と出店。
3回生はラーメン屋さん。
売ったのは、ジャパンで買った「うまかっちゃん」笑
4回生はダーツ屋さん。
メインの商品は、売れ残りのボジョレー。
・バイトは、居酒屋、ハンバーグ屋、
ホテル、家庭教師、塾講師等を経験。
一番長かったのはホテルの宿直バイト。
・3回の10月頃から就職活動開始。
広い意味で人生を左右する場と捉えて
早めに動き出す。
・ダブルスクールとか結局せず。
ただし大学の授業は同じお金お払うなら、と
もったいなさを感じて出席し続け、200単位超取得。
・教職免許(公民のみ)を取得。
科目の履修ミスにより、ギリギリ免許は取得できた。
・将来の起業を視野に入れて、
中小・ベンチャーを中心に就活。
社長セミナー中心に活動をし、
就活期間中、40人程の社長の話を聞く。
・最終的には、
「自信のある人になりたい」と感じ
そういった人が多くいる会社に惹かれ、
大手生命保険会社に入社。
・新卒でしか入れない会社、という点も意識して選択。
あとは、見栄と給料も決め手のひとつ。
大手生命保険会社入社
・導入研修最終日にホールにて、配属発表。
縁もゆかりもない「金沢配属」を命じられる。
・金沢支社(石川県)にて3年勤務。
ここで基本的なPCスキルを身につける。
とりわけExcelスキルアップ。
・周りに温かく受け入れていただき、
助けてもらいつつ、上司にも恵まれ
最高の金沢生活を送る。
・金沢は第3のふるさと。
ミャンマー入り直前にも寄りました。
多くの方が可愛がってくれ、
未だに付き合ってくれています。
・当時の上司に「せめて本を読め」と言われ
22歳で読書に目覚める。(遅っ)
・23歳。初めて雪合戦大会に出場。
大学時代にテレビを見て、やりたい!と思い、
ようやくこの歳で大会デビュー!
(チームの活動は今も継続。)
・当時のチーム名は、大卒OHAGI 団。笑
恥ずかし過ぎる名前です。。
今は、「きつつき」という名前で活動中。
・読書熱が高まり、もっと早く、多く読みたい、と考え
24歳で10万円出して、フォトリーディングを受講。
会社の研修が木・金にあり、その土日に参加。
出会った人に多くの刺激を受ける。
・25歳 フォトリーディングで出会った方の紹介で
ブレークスルーテクノロジーを受講。
「解釈」という考えを取得。
・この講座が終わった時の不思議な感覚は
今も忘れられません。
・その流れでアドバンス、ICLPも完了。
途中までは、石川から東京に通ってました。
ICLPで受けた衝撃と苦悩の日々は、今も宝。
本当に自分の人生のパターンが恐いくらいに見えた。。
・東京に異動。
着任3日目にインフルエンザでダウン。
「違う理由で休んだのかと思った」と心配される。
精神的には比較的タフですけど?
根っからのポジティブなんです。
・仕事面では、上司の指導と仕事内容のおかげで
パワーポイントスキルが大幅に向上。
この部分、自信もつきました。
最高に恵まれた環境で、ハードに働く。
・2011年4月 3日間セミナー参加。
(平成進化論 執筆者の鮒谷さん主催)
これが人生の転機。ブログの執筆を開始。
・その後もフォローアップセミナー等参加し、
社外の知り合いがググッと増える。
そして刺激をバシバシうける。
・スーパー上司の異動に伴い、
ハードなポジションを勤める事となる。
・他の所属の方もたくさん指導をしてくれて
そのおかげで、なんとか喰らいつく。
「仕事の仕方」なんかもこの時期に教わりました。
・この当時は、相当きつかったなー。
自分の能力が至らなかった影響が大きく、
また業務も色々と重なった事もあり、
2・3月はほぼ毎日、朝7時から24時まで
土日も出勤、なんて生活が続いた。
・この頃の経験が自分を強く、逞しくしてくれた。
勝手にそんなことを思っています。
・加えて、この時期に踏ん張った事で獲得した
信頼(?)のおかげさまで、
この先の仕事がスムーズに回るようになりました。
・今、思えば充実していた時期!
根っからの仕事人間かもしれません。。
・所属への在籍年数も4年目と長くなり、
引き継ぎなんかも意識して
自分の立ち位置を考えながら仕事をする。
・個人的には大失敗。
所属のパフォーマンスも落ちた気がしました。
この年は、仕事へのモチベーションが下がってました。
遠慮なんてするもんじゃありません。
・所属 5年目。
気持ちを切り替えて、バリバリやる事を決意。
そうすると、俄然、仕事も楽しくなってきて
久々の早朝出勤続きの半年となりました。
・この時期が結果的には楽しかったです。
朝、早くから活動する事の魅力を実体験としてわかり始める。
結果的には、同所属に4年9ヶ月所属。
2013年12月31日付 退職。
2014年1月9日より
ヤンゴン(ミャンマー)にて勤務。
現地の日系企業向けにミャンマー人材を紹介。
・日々ミャンマー人と英語でインタビュー。
・日系企業への進出に関するコンサルティング業務。主に人材。
・現地の大学、社会人向けのセミナー講師。
・就職活動イベントへの出展 及び 集客。
・優秀なミャンマー人を集めるための方策の企画・運営。
・日系企業向けの営業活動。(企業向けセミナー等)。
・有用な情報の発信。通信の発行やアンケートでのサポート。
2年で 2,000人を超える方と名刺交換。
2年で のべ1,000人へのキャリアセミナー。
2年で のべ1,000人のミャンマー人と面談。
といった実績を築き上げる。
ミャンマー進出日系企業が最も増加した時期に
人材紹介業務を担当していました。
2016年1月よりフリーランス。
各種の案件を引き受けて対応。(時系列)
・人材紹介会社の顧問業務
・ミャンマーでのリサーチ業務
・ビジネス誌制作のための執筆・編集
− 主にインタビュー・撮影・記事執筆
・セミナー講師業
・ミャンマー関連情報発信のサポート
・デジタルマーケティング支援業務
・インフルエンサーマーケティング業務
・ミャンマー進出時のアドバイザー業務
・動画の撮影・編集
・記事広告の制作
・イベントのコーディネート業務
・アポイントメント取得代行業務
依頼を受けて幅広く対応しています。
ミャンマー6年目で、これまで築いた人脈をベースに
・ミャンマーへの進出を検討中ながら
あまり情報や人脈がない方の支援
・ミャンマー進出したけれど
事業展開に困っている方の支援
に強みあり。
インターンやミャンマーでの就職に関する問い合わせも
多く頂いており、紹介ベースですが、対応しています。
海外渡航歴
ASEAN(10カ国中)の訪問状況。
訪問国一覧
1:タイ、 2:ベトナム、 3:カンボジア
4:シンガポール、 5:マレーシア、 6:インドネシア
7:フィリピン、 8:ミャンマー、9:ブルネイ、10:ラオス
ASEAN滞在中に意図的に訪問。
ミャンマーとの違いをウォッチしてきました。
その他の訪問国
ブラジル、イタリア、イギリス、フランス
UAE(カタール、アブダビ)
アメリカ(グアム、ニューヨーク)
中国(北京)、台湾、スリランカ
バングラデシュ、ブータン、ネパール、インド
メディア出演実績
・NHK おはよう日本
・朝日新聞 特集×2回
・ジパング 2回
・東京FM タイムライン アジアへ羽ばたく和僑
講演実績
・兵庫県立大学 経営学部 108名
・ミャンマー国立大学 10校 × 最低3回
・日系企業向けセミナー
@日本 5回
@タイ 2回
@ミャンマー 5回
要望に応じて対応いたします。