先日来、自分で「場をつくる」
そんなことをはじめています。
一番長いもので3ヶ月。
短いものでは2週間ちょっと。
今週は、2つの「場」があり
その中でのやりとりを通じて感じた事。
「居心地がいい」の定義は曖昧。
居心地がいい というと
どういったイメージを持つでしょうか?
こんな場所は居心地悪そうです。笑
私の田舎。居心地は最高です。
ここはどうでしょう?
居心地よさそうですかね?
この人は快適そのものって顔してます。笑
これもまた快適そうな雰囲気。
何を持って居心地がいい、とするか
何を持って快適というか。
これって結構、大事なことだと思います。
しかし、ほとんどの人は言語化できてないかと。
私も同様です。
難しいかもしれないけれど、
言葉で定義することって大切なことです。
例えば、成長したい!
という人がたっくさんいます。
しかし「成長」の定義もたくさんあります。
成長したい、といいつつも実際には
深掘りしていってみると
成長なんて求めてなかったり
するかもしれません。
言いたいのは、定義は曖昧 ということです。
ただし、感覚では
「居心地がいい」かどうか
はわかります。
「居心地の良さ」
自分なりに「居心地がいい」とは何か
を考えてみました。
人には承認欲求があります。
しかもかなり強いです。
最近、色んな人と話していて感じます。
「○○から認められなければ」
(会社や親や…)
「何か大きな事をしたい」
カタチは違えど、すべて承認欲求から
来ているものだと感じています。
よって、自分が認められている環境では
快適さを感じやすいものです。
意見を求められる立場にある場とか
自由に発言できる場とか
バカになる事を許される場とか
色んなカタチはありますが、
そうした場は
自分が認められている場
といっても差し支えないかと。
そうした時に思うことがあります。
快適であればいいのか?と。
認められていればいいのか?と。
なんとなくそれだけではいかん、と
感じております。
まとめ役となってしまえば、
認められる場にいることは間違いありません。
その人がいなければ、この場はなかった。
そうなれば、しめたものです。
だから、場をつくる側にまわる。
これは、承認欲求を満たすには
手っ取り早い方法です。
しかし、どうもそれだけではないぞ、と。
そんな事を感じております。
それがどんな場かというと
居心地が悪いけど、快適な場
一見、矛盾した表現です。
というか、言語化力が低いだけかも??
快適 というよりは 成長できる
の方が表現は適切かもしれません。
それは、どんな場かというと
厳しく指導してくれる人がいる。
嫌な事も言われるけど、自分の成長のためになる。
厳しいことを言ってくれる人って
いつの間にか減っていきます。
年をとれば取るほど、そういった事を
言ってくれる存在は減っていきます。
言う側からしても
「この歳の人に言っても、今さら変わらんだろう」
といった、ある種の諦めなんかも出たりします。
叱っていただく、指導していただく
そんな機会は減っていきます。
それが
本当に心地よい環境でしょうか?
心地よいかもしれません。
叱られることに、怯えることもないし
誰からも咎められることはありません。
しかし、
成長を追い求めるという目的の上では
快適なのでしょうか?
どうも違うような気がしています。
成長を追い求める、自分を高める
そんな欲求がある人は今一度
考えてみてもいいかもしれません。
自分にとって居心地のいい場所と
「今いる場所」「いま所属している場」が
どういう関係にあるか、ということを。
※当然、目的によります!
日々を楽しく過ごす上では居心地がよくないと!
今の私の大きな方向性は、居心地が悪くても
自分の成長を追い求め続けざるを得なくなる。
そんなプレッシャーのかかる「場」にいたい
と感じます。
コミットメントをきっちりこなしていく
しかも、簡単でないコミットメントを
自らに課して、きっちりクリアしていく
そんな人を見ていると
負けてらんない! と、そうなります。
そういう人たちの中で
「あんた、何やってんの?それでいいの?」
「目標、低くないっすか?」
と、そう言い合える。
そんな場で自分を高めていく。
それが私の求めるカタチ。
やれそうな目標でなく
荒唐無稽な目標。
しかし、見失わないように
中間地点もしっかり定めていく。
そうしたことをやっていこう。
低い目標ではなく、高い目標を掲げ
その達成のために地道ながらも
ちょっと背伸びをしないとできない事を
ひとつひとつやっていく。
これが私の求めるカタチ。
そんな志に共感できる仲間を
つくっていき、高め続けていこう。
停滞は敵だ。
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