ヤンゴンは、少しずつ雨の日が増えてきました。
雨季がドンドン近付いています。
カタツムリなんかも出てました。
今はまだ1日の中の晴れの割合が多いですが、
これから雨の割合が高まっていくのでしょうか?
前回の続きとなります。
前回は、友人の進学先や自分の進学先を考える際に
「キャリア」を意識しはじめた。
といった事を書きましたが、今回はその高校について。
高校進学について
結局、高校は、家から自転車通学圏内の学校ではなく
1時間の電車通学が必要な地元の公立進学校に進みました。
一応、高校受験もありましたが、落ちる気はせず、
受験代がもったいない、といって私立も受けませんでした。
370名くらいが受けて360名が合格するので、
その10名に入る方が難しいだろう、とそんな感覚でした。
無事、受験も突破して、高校へ。
環境の変化
高校では、小・中と環境が大きく変わりました。
通学時間(ロケーション)
通ったのは岐阜県立斐太高等学校という高校で
高山市にありました。自宅から、通学時間は1時間。
山をひとつ超えて通学をする必要があり、いわば都会!
地元の小・中とはまったく違う世界でした。
(とはいえ、まだまだ狭い世界でしたが、、、)
周囲のメンバー
同じ中学校から、高校に進学したのは自分含めて3人。
中学の1学年は約90人で、そのうち3人だけ。
高校の1学年は、およそ360人。
よって、実質の知り合いは360人中2人のみ。
あとは部活で顔を合わせたメンバーが何人かいました。
とはいえ、全体の5%も知らなかったと思います。
1クラス40人程度だったのですが、知り合いは1人だけ。
あとは全員知らない状況からのスタートでした。
授業内容
高校での授業は、1年の担任であり、数学の先生であった
池田先生の授業に超強烈なインパクトを覚えたものの
あとは、そんなに大きな変化もありませんでした。
池田先生の授業は強烈でした。
鹿児島から県の交流で来ていた、数学の先生だったのですが、
授業開始前の休み時間から、ぐわーっと、黒板に問題を書きます。
しかも、ものっすごいハイスピードにて。笑
で、授業開始前には問題を書き終えて、そこから授業開始。
授業もこのままの超ハイペースで進み、休む暇もありません。
そして、書いては消して、書いては消して、、、あっという間に過ぎます。
丸で、台風のように、一気に来て去っていくという授業でした。笑
そして、鹿児島弁のイントネーション。笑
はじめは、衝撃でした。これが高校かと。。。
でも、特殊だったのは、この先生だけでした。笑
あとは、授業は中学時代とそんなに変化はありませんでした。
高校では、メンバー・環境面に大きな変化がありました。
電車通学
家から自転車10分で中学に通っていた状態から
電車に乗って、高校へ通う日々へ。
電車の中は、いつも同じテニス部のメンバーと。
電車で通っている人達は学校全体でも
「電車組」なんて呼ばれてました。(差別ではありません。笑)
「電車組、帰る時間やぞー」なんて部活の先生に言われる感じです。
この行き帰りあわせて2時間の電車では、
行きはその日の小テストの勉強とかしてました。
帰りは、おやつを食べながら、色々と語り合っていました。
キャリアを意識したタイミング
さて、本題のキャリアについてですが、高校時代から意識しました。
というのは「大学」「学部」について考える機会が出てきます。
というのは、高校の1年から2年に上がるタイミングで
「文理選択」がありました。文系にいくか、理系にいくか、の選択です。
この選択が1つ目の分岐点となっていました。
どんな学部にいくと、どんな職業につけるか?
みたいなのが、おぼろげにわかりはじめたのがこの頃。
医師になりたかったら理系にいかないといけない。
会計士、税理士、弁護士になりたかったら文系かな、とか。
先生になるには、教員免許が必要で、そのためには、、、とか
なんかそんな事を1年の途中から、考える必要がありました。
個人的には、やりたい仕事は文系に多かったので、文系でいいかな?
と考えていたのですが、学校の1年先輩である姉と、父・母と相談し
「潰しがきく理系でいいんじゃないか?」
なんて話になって、数学も好きだったので、理系に進む という
選択肢を選びました。選択肢の先延ばしです。笑
これもまた大きな分岐点だったように思います。
理系と文系では、男女比率が違い、担任の先生も違いましたので。
ちなみに、理系は、クラス40人のうち、7割が男のイメージでした。
ここまでのまとめ
高校では「環境」「メンバー」が大きく変わり
高校2年での「文理選択」を前に選択する必要が生じ
その際「キャリアを意識しはじめた」のです。
長くなってきたので、次回に続けます。