ミャンマーの桜(?)ともいうべき
季節の花「パダウ」が咲きました。(紹介はこちら)
ついに、ヤンゴンも雨季到来の予感。
今日、ざーっと雨が降って、市内はこんな感じに。(30秒の動画です。)
前回の続きとなります。
前回は、小学校時代に考えたキャリアについて書きました。
今回は、中学校時代のことについて
中学校をどう過ごしたか?
中学校になっても、メンバーは小学校時代と変わらず。
むしろ数名ながら、メンバーが減りました。
場所も、小学校と中学校は近く、1キロ以内の距離。
自宅から行くと、小学校の先にある坂を登ったところに
学校があった、というくらいのもんです。
つまり、周囲の環境変化による新たな刺激はなし。笑
中学校からは、部活がはじまり
ソフトテニス部に所属して毎日テニスをしていました。
ありがたいことに、テニスは地区ではそれなりに勝てて
ほぼ毎回、地区で2位。結局1位には一度もなれず。
悔しい想いをし続けた3年間でしたが。。
テニスを通じて、校外の友人が少し出来ました。
※彼らとはゆくゆく高校で出会いました
しかし、中学時代に限っていえば大会で会うくらいで、
環境変化といえるほどの影響はありませんでした。
つまり、小・中で環境変化はほとんどなかったのです。
学校の成績等について
自慢のようになってしまいますが、、
成績面においては、中間テスト、期末テストなど
学年1番か2番がほとんど。
授業は休まず出席し、ずーっと集中してましたが
勉強した記憶は、一時期を除いて正直ほとんどありません。
(確かですが)全テストの半分以上は学年1番でした。
しかし中学時代、一度だけ学業面で焦った事があります。
入学して、1番、2番、3番ばかりだったのが
2年生の2学期くらいに13番か14番を取りました。。
暗記しなきゃいけない社会の科目がアホらしくて
手を抜いた(?)のもあり、成績が落ちました。
その次のテストでは、さらに落ちて、17番とかになりました。
これで、相当焦ったのです。。
で、進研ゼミかなんかをやって、ちょっと真剣に
勉強をした記憶があります。
とりわけ地理を一生懸命やった記憶があります。
そしたら、一気に学年2番に返り咲いて、そこからは
またおおよそ定位置に戻った記憶があります。
周囲がどれだけ勉強していたのかは知りませんが
学校の成績はそんな感じでした。
そうこうしているうちに、3年生になりました。
そうするとやってくるのが、次の選択です。
高校進学をどう考えたか?
高校進学を考える上、キャリアを考える上で
記憶に残る、2つのエピソードがあります。
ここでは2つ触れたいと思います。
「友人の進学(推薦)」と「自分の進学」
友人の進学(推薦)
友人には、スポーツ推薦の話が来ていました。
野球部のエースでした。ちなみに、サウスポー。
その学校は、これから野球に力を入れる、との事で
他県からも学生を集め、彼にも声が掛かりました。
彼は、進路を決めかねていました。
いわば、キャリア選択ともいえるタイミングです。
「そのままうまく行けば、甲子園・プロもあるかも?」
という、そんな世界です。
しかし、彼は迷っていました。
なぜならば「野球漬け」「男子校」という環境。
推薦を受け入れるかどうかの結論を出さなきゃいけない
〆切日ギリギリまで悩んでいた記憶があります。
結局、彼はその道を選びませんでした。
そして地元メンバーと同じ地元の高校に通いました。
厳密には選ぼうとしたけど、間に合わなかった(?)ような。。
記憶は定かじゃありませんが、ギリギリまで自分の人生を考え
休み時間には、保健室でずーっとそんな話をして
悩んでいた姿が印象的だったので、未だに覚えています。
あの時が、彼にとって「キャリア選択の瞬間」だったのです。
高校選びが人生選びになるかもしれない、なんて
当時は思ってもみませんでしたが、今、振り返ると
高校選びは「重要な人生の分岐点」です。
たられば、はありませんが、彼が野球推薦の道を選んでいたら、、、
そう考えてみると、人生って面白いものです。
自分の進学
中学時代のキャリア教育等を通じてか、
ぼんやりと将来の事を考えていました。
どんな仕事をしたら、いくらくらい給料がもらえる。
なんて情報が1冊にまとまっていて、それを使ってました。
たぶん超ざっくりの資料ですが、、、
(お医者さん2,000万円、税理士1,000万円とかそれくらい。)
それを見て考えたのだと思いますが、
受験が面倒だという想いもあって、進路については、
商業科に推薦で入って、最短で簿記2級とかの資格を取って
大学に進学して、税理士資格とかとって税理士になろう。
なんて思っていた記憶があります。
高校の推薦での入学を親に反対された記憶は明確なので
浅い深いはともかく「キャリア」を考えていました。
「まだ選択を狭める必要はない」といったようなアドバイスを受け
「普通科に行った方がいい」と言われた記憶もあります。
また一方で高校を選んだ時の家族のやりとりとして
姉からは「同じ学校に来るな」と言われて
(高校教師である)父親から「うちの学校に来るな」と言われて
どないしたらええねん、と思った記憶もあります。笑
どっちが決め手かは定かではありませんが、きっと両方でしょう。笑
もうひとつの夢「ジョッキー」
加えて、もうひとつ真剣に
「競馬のジョッキーになりたい」と思っていました。
ダービースタリオンという競馬ゲームにハマり、
実際の競馬も見るようになり、競馬に興味を持ちました。
で、身体が小さかったので、それを活かせる仕事で
ジョッキーになれないか、と真剣に考えていました。
入学要件に体重が◯㎏以下といったものもあり、
ここだけでも幅が狭まるため、チャンスはある、と
真剣に考えたのです。(募集要項はこちら)
しかし、色々調べてみると、トップクラスは
小さい頃から馬に親しんだメンバーばかりらしく
父親がジョッキーとか、結構狭い世界だという事もわかり
また「ある意味で賭けに近い」とも感じたために
この夢は、願書も出さず諦めました。
(後に2学年下の後輩がジョッキーになりました。)
彼は頑張っているのでしょうか?(彼の情報はこちら)
中学校時代を振り返ると
小学校時代よりも少しだけ人生を考えていた記憶があります。
高校進学という一大イベントを機に。
小学校時代の「ぷろやきゅうせんしゅになりたい」という段階から
高校進学を控えて、友人が「プロ野球選手」になるかも?
成功すれば、、、と少し具体的に将来像を描けました。
(同時に失敗のリスクも感じたり、、)
また、中学校のキャリア教育的なモノを通じて
少しだけ将来の仕事をイメージしてみたりしました。
税理士という職業なら、お金が貰えるだろう、くらいの
安易な発想だったとは思うのですが、その当時に
商業高校、資格取得、という最短ルートもイメージ出来たので
これがいいんじゃないか?と思ったのだと思います。
やっぱり、見えてる世界しかイメージできない。
それが私のキャリア形成の軸にあったのだろうな、と
中学校を振り返ってみても思います。
ただ、小学校時代と大きく異なるのは、
高校進学を巡って、キャリアをイメージしていたこと
高校進学がかなり重要な分岐点になる、と
頭の片隅で理解していた事です。
ジョッキーの道を選んだら?とかそういう事を
頭の片隅では理解していたように思います。
中学校時代というよりも、高校進学を考える事で
「キャリア」を少しずつ意識しはじめたのです。