思った時に、思った事を書こう。
今、とても悲しいです。
知人が亡くなりました。
想像できるキーワードを書くだけで
涙が出そうになるし
嫌な気分になるから
言及するのは避けておきますが。
知人は、ミャンマー語ができ
外務省の職員で
ミャンマーにもいた事がある。
知人であって、友人といえるほど
会っていたわけでも
連絡を取り合っていたわけでもない。
たぶん会ったのは一度きり。
それでも印象に残っています。
とても優しい雰囲気の
優しい方だったな、と。
2014年の夏頃だろうか。
私がミャンマー行きを決めた頃。
友人の紹介で彼と3人でご飯を食べた。
「ミャンマー行くんです。住んでたんですよね?」
なんて話をしながら
当時のミャンマーの話を聞かせてもらった。
たった3時間ほどだったけれど
一緒の時を過ごした。
共通の友人が彼と仲良しだったこと、
「ミャンマー」という
なかなかレアなキーワードで繋がったことで
一気に近付いた気がしていた。
ミャンマー料理屋さんで
一緒にミャンマー料理を食べたが
ミャンマー人の店長さんと
ミャンマー語で話していて
「うおー、格好いい!俺もああなりたい!」
なんて感じたことも強く心に残っている。
日本の大学でミャンマーの言葉である
「ビルマ語」が学べる大学は2つだけ。
東京外国語大学、大阪大学・外国語学部。
それぞれ かなり少数のメンバーが
ビルマ語を学んでいる。
そんな話を聞かせてもらった。
今でこそ
ミャンマー の名前は新聞でも見るが
15年前のミャンマーは軍事政権真っ只中。
ビルマ語学科を卒業したところで
ミャンマー関連の仕事につける人は
年に1人いるかどうか。
外務省に入省できたとしても
ミャンマー担当になるわけでもない。
そんな中で、彼は
ミャンマー担当となって
ミャンマー語通訳としても
キャリアを積んでいた。
日本に、アウンサンスーチーさんが
来たときには
一緒に京都に行く、だか、行っただか
そんな話を聞いて
「すっげー」
って思っていたのが懐かしい。
ミャンマーと日本との関係が
急激に深まりはじめたのはここ数年。
「8,000億円」なんてワードもあり
大きな潮目にある。
専門家を育成するには
もちろん数ヶ月ではできない。
かなりの時間をかけて育成される。
国家トップレベルのやりとりは
外部への情報漏えいを防ぐ観点から
外務省の言語専門官が対応する。
きっと、そうなっているのだろう。
報道によれば
ミャンマー語の通訳官は 約10名。
これまでももちろん
重要な役割を担ってきただろうけれど
これから、さらに重要な役割を
担うことになっていくことになるだろう
ミャンマー語通訳の専門官。
ミャンマーと日本にとって
本当に、本当に、本当に
本当に、本当に、本当に
惜しい人が亡くなってしまった。
なぜ、彼だったのだろう。
そう、思わずにいられない。
2014年の夏に
ミャンマーの事を色々と教えてもらい
何も恩返しもできていない。
「あれからミャンマーは
こんな風に変わったんすよ。」
なんて話の1つでもしたかったな。
そんな事を改めて感じた。
人生っていつ終わるかわからない。
なんてよく耳にする。
スティーブ・ジョブズ氏の言葉も有名だ。
「もしも今日が人生最後の日だとしたら、
今日やろうとしていることを
やりたいと思うだろうか?」
まだまだ 自分にとって
「終わり」は他人事で
その本質はわかっていない。
今回の件を通じて
ああした悲惨な事件を
ほんの少しだけ
ジブンゴト化することとなった。
そこで生まれる疑問がある。
私にできることは何があるだろうか?
自分のことを考えれば
後悔しないように走ること。
それに尽きる。
誰かの役に立つ何かをするため
その時、その時にできることをやる。
そして、彼の事を思うと、、、
考えるだけで涙が出てくる。
どんな気持ちで、その場にいて
事が起きた時に
どんな動きをしたのだろう。
もし そんな場面に遭遇した時に
「自分には何ができるだろうか」
逃げたり、様子見したり
立ちすくんでしまうだろう
今のままだったら。
「子供を守ることに決めている」
なんてツイッターで書いてた方がいて
とても素敵だな、と思った。
起きたことは起きたこと。
同じような事が起きないようにするために
何ができるだろうか。
もしそこにいた時に
何ができるだろうか。
ヒトゴトとして
ああだこうだ言う事は簡単だ。
何ができるかを
「ジブンゴト化」して考えることは
優しい社会のためにも必要だ。
そして、それこそが
今の私にできること。
ジブンゴト化できる人を増やす。
その一歩がスタートしたところ。
本当に、何ができるか
考えて、行動に変えていこう。
それにしても、悲しすぎる事件だ。
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