2011年3月11日。
あの日から7年。
時の流れは早く、記憶は色褪せる。
それでも、まだ鮮明に残る記憶。
だからこそ、文字として残そう。
ちょうどブログをはじめる
2ヶ月ほど前のことだから
何も書き記したモノはない。
7年前の3月11日。
私は、日本生命保険相互会社の
東京・丸の内ビル11階にいました。
グラグラっと揺れが来て
なかなか長く続くなー
と思っていたら
揺れはおさまることなく
むしろ徐々に強くなり
しばらく揺れ続けました。
これはヤバい、と感じて
机の下に潜ることに。
潜った瞬間
所属内の電話が鳴り
机の下から手を伸ばして
電話を取りました。
KGY「はい、もしもし KGYです。」
相手「おー、KGYか。◯◯のFです。
△△って、今、話せそう?」
電話の相手は知ってる方で
岡山県倉敷市からでした。
KGY「今、地震が来ててですね、
かなり揺れてまして
ちょっと対応難しいかと。」
相手「え、地震?Yahooは、なんも情報出てないで。」
KGY「まさに今、揺れてます。。」
相手「あ、なんか情報出た。ヤバいかもな。
なら、また掛けるわ。」
てな感じ。
電話をしていたことが
まるで昨日の事のように
思い起こされます。
地震後しばらくは
免震構造の建物が
左右に大きく揺れ
キー キー と
不気味な金属の摩擦音が
聴こえていました。
窓から見える隣のビルは
大きく左右に揺れていました。
「こんな揺れるの?!」
と、言っていたら
「このビルもたぶん同じやで。」
と、ハッとした記憶も。
地震直後
地震の直後、しばらくは
携帯通信も麻痺状態。
まったく電話もネットも
繋がらない状態。
念のため、との事で
社内に備え付けられている
乾パンと水を取りに
螺旋状 の 非常階段を
登り降りして運びました。
何度も余震が来て
その度ごとに
各人の携帯から
地震のアラームが鳴り
それが反響し
不気味な音を奏でていました。
ネットが回復した後は
津波に流される家の映像を見て
え、これ、マジ?!
と、唖然としたことを
はっきりと思い出されます。
「家に帰れる人は帰るように」
との事で情報をチェック。
Twitter や Yahoo! が
大いに役立ちました。
夜の遅い時間になって
幸いにも、通勤路線が回復して
帰る事ができる目処は立ったものの
帰れない方もチラホラと。
所属内にも2名ほど
帰れない方がいたので
帰らずに会社に泊まる事に。
金曜日だったし、土曜は
特に予定がなかったので
結果オーライでした。
土曜の朝、
電車が動いているのを確認して
帰路につきました。
今、思えばあれだけの混乱の中で
最新情報はドンドンシェアされてて
なんともすごいもんでした。
歩いて帰った知り合いから
聞いた情報によれば
「歩道が人で溢れていた。」と。
つまり、それだけ多くの人が
歩いて帰ろうとしていた。
と。
その事実にも驚かされました。
残すことの意味
未だに これだけ
ハッキリと覚えています。
7年も前の事なのに。
それだけ
ショッキングでした。
機会があって
震災の約半年後に
仙台を訪れ
震災の被災地を見ました。
何もない更地に見えて
家の基礎部分だけが残っている。
そんな光景を見て
津波の恐ろしさを
被災地の大変さを
痛感しました。
それでも、記憶は風化します。
これでも
ずいぶんと多くの事を
忘れ去っているでしょう。
あの時の記憶は今もまだ
かなり鮮明に残っているけれど
当然ながら
少しずつ色褪せてもいます。
あの強烈な記憶でさえ
薄れていくのです。
残したいものはキチンと残す。
そのためにも
ブログを書き続けよう。
と、改めて感じた次第。
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