あるもの ねだり
とは言わない。
ないものねだり
とはよく言う。
ないものねだり には
際限がない。
だからこそ
あえて ない から
目を離して
ある に目を向けよう。
そこには必ず
「可能性」がある。
ついつい「ないものねだり」を繰り返す
やれること と やりたいこと
この2つの狭間で人は揺れ動く
やれることはそれほど多くない。
一方でやりたいことは山ほどある。
往々にしてこういうものだ。
自分はもっとやれる。
そう思いがち。
だがそれは思い込みでなく
おそらく
本当に、もっとやれる。
それなのに
どうもうまくできない。
できない もどかしさを
強く抱く。
時間的な制限であったり
能力の限界であったり
知識不足であったり
マネジメント不足であったり
様々な要因がある。
やりたいと思ってもやれない
ということも多い。
だから
人はよく口にするのだ
自分にもっと経験があれば
自分がもっと年齢が高ければ
自分がもっと若ければ
時間があれば
お金があれば
独身だったら
結婚していたら
と。
たられば と
まとめられるやつだ。
自分も常に考えているし
多くの人がこれを思っている。
“ない” ものねだり を
繰り返すものだ。
ないものねだりを繰り返して
多くの人は
バランスを失っていく。
時間がない人に時間を与えても “ない”
外から見れば
十分にやれている人も
その人の中では
不完全だ と思っていたりする。
もっとやれるはずなのに、、、
と思っているものだ。
十分にお金がある人
十分に時間がある人
もいるだろう。
外から見ていると
満たされているように見えても
本人は満足できない。
そういうものなのだ。
いくらお金があっても
もっともっと欲しい、と考え
あがき続ける人もいる。
どうも、多くの人は
現状に満足できないらしい。
私もそうだ。
では、どうするか?
「今の自分に満足せよ。」
などと言う気はない。
猪木も言っているではないか
人は歩みを止めた時に
そして 挑戦をあきらめた時に
年老いていくのだと思います。
と
つまり
満足せずに
歩み続ける
それしかないのだ。
それがなくなれば後退だ。
しかし
その時に忘れてはいけないことがある。
どこに注目するか、である。
“ない” ものねだり は
いつまでも、いつまでも続く。
「時間があれば」
と 言っている
いわゆる “時間がない” 人に
時間を与えたとすれば
きっとその人は
やることが “ない”
と、言い出すだろう。
やることがない
と言っている人に
やることを与えたら
時間がない
やりがいがない
と、言い出すだろう。
ないものねだり
には、キリがないものだ。
ない の 裏には ある がある
では、どうしたらいいのか?
ないものねだり
は、やめた方がいい。
その代わりに
あるものを見つめたらいい。
純粋に自分の心の中を見て
何があるのか。
ここを見つめてみたらいい。
どうしても
“ない” に目がいきがち。
だからこそ
“ある” に目を向ける。
“ない” の 裏返しは
“ある” なのだから。
弱みの裏返しが強み
であるのと似た感じだ。
時間がない の裏には
やることがある。
やることがない の裏には
時間がある。
どうしても
“ない” に目がいく。
そんなことはわかっている。
彼女がいない。
結婚相手がいない。
自信がない。
実力がない。
経験がない。
前例がない。
確信がない。
時間がない。
笑顔がない。
お金がない。
ないない尽くしだ。
他と比べれば
どんどん ない が湧いてくる。
際限なく、ない が湧いてくる。
とりあえず
それらは吐き出してもいい。
でも
そんなものはどうでもいい。
何が “ある” のだろうか。
そこを見てみよう。
あるものが
いっぱいあるのだ。
本当には。
「自信がない」
その裏には
期待があるわけだし
やりたいことがあるのだ。
やりたいことがなければ
「自信がない」
なんて言葉すら出てこない。
やりたいことがある、
そこをこそ、大切にしたい。
何があるのか。
どんな時でも
必ず あるモノがある。
それは
「可能性」だ。
可能性が
限りなく低いケースもある。
それなりに高いケースもある。
しかし
どんな場合においても
そこには可能性があるのだ。
ないものねだり から離れて
可能性 に目を向けてみると
なんだか
違うものが見えてきませんか?
これが
足るを知る
っていうことなのかもしれませんね。
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