前回の続きです。
モーラミャインの林の中、バイクの上で「ビジョンとは何か?」が腹落ちした話。
モーラミャインの町から
ずーっとバイクで走り
Thanbyuzayarの町に到着。
着いてからも
ちょこちょこっと迷う。。。
泰緬鉄道の始点タンビュザヤ
Googleマップに助けられ
まずは墓地へ。
おびただしい数のお墓。
年齢を見れば
25歳、26歳、29歳、53歳、、、
私よりも若くして
多くの命が戦争で命を失っている。
なんともいえない気分で
自分に与えられた命に感謝をしつつ
少し木陰で涼む。
ざっと見渡し、数えた限りで
4000以上のお墓。
1939年から1945年の間だとか。
戦争って本当に何なんだろうか。。
墓地を離れ、
DeathRailwayMuseumへ。
ホテルのおばちゃんから
この博物館は
外国人は入場料が5,000KS
ミャンマー人は800KS
と情報を得ていた。
あんたはミャンマー語話せるから
「ミャンマー語話せるって言えば
800KSでいけるよ。」
と、言われていた場所。
ほんまかいな。
と、思いつつ
チケットカウンターで
ミャンマー語で
「いくら?」と聞いたら
「800KS」
きたーーーーー。
ラッキーでした。
で、入場口で
何人だ? と聞かれたが
そこは華麗にスルーしてみたw
で、中に入ると
展示物は、、、かなり少ない。
Death Railway Museum
泰緬鉄道の始点の地
Thanbyuzayar(タンビュザヤ)
ここで泰緬鉄道に関する
展示がされていた。
イギリスの計算によれば
72ヶ月掛かる予定のものを
日本は15ヶ月で完成させた。
目的は、バンコクからミャンマーへと
物資を運ぶため。
密林の中を切り開いた鉄道だ。
戦争も終盤で日本がかなり
苦しかった時期のことのようだ。
当地で働いたのはミャンマー人と
戦争捕虜。(欧米人)
過酷な工事現場であり
9万とも15万人とも言われる数の方
が亡くなったとか。
厳しい労働条件が課されていたそうだ。
1日当たりの生産性条件が課せられ
達成できなかったものは殴る蹴るの暴行。
その傷から膿が入り死ぬ者や
感染症でなくなる者もいたとか。
ご飯は、1日1杯。
それで夜明けから22時過ぎまで。
日によっては徹夜。
そんな過酷な環境であったらしい。
この始点の地にある
線路の枕木1本1本も
彼らによって運ばれたもの。。
そう思うと色々な想いが
頭を巡る。
にしても
15ヶ月でタイ・ミャンマーを繋ぐ
鉄道を通してしまう日本国軍。
かなり無理を強いて
多くの犠牲の上に成り立っているが、、、
それでも、その執念はすごい。
犠牲の数の多さとか
そちらも気にするところではあるが
それ以上に
通常なら3年掛かるところを
1年3ヶ月で終わらせる。
その執念というか、覚悟というか
そちらがすごい、と感じた。
まさかの、芳賀さんに遭遇。
この博物館はミャンマー人ばかり。
そりゃそうだ。
モーラミャインの町自体
外国人はほぼ見ない。
ましてや日本人なんて。。。
と、思っていたら
日本語が聞こえた気がした。
子供の声?!
ふと周りを見渡すと
「MIURA」と背中に書かれた
野球のユニフォームのような服が見えた。
これは、と思ったら、やはり。笑
芳賀さんに出会った。
まさか、こんなところで。
少しでもお互いの時間がズレていれば
会うことはなかったわけだ。
私が道で迷っていなければ、、、
もう1時間早く起きていれば、、、
この場所を選んでいなければ、、、
不思議なご縁に感謝!
モーラミャインではない場所で
まさかの知り合いとの遭遇。
なんとも不思議なものです。
さて、かなーり長くなったので
次に続けます。