ミャンマー人のマネジメントで思うこと。
なーんて話をちょっとばかり。
ミャンマーにある多くの日系企業が
ミャンマー人スタッフを
採用していると思います。
ミャンマー人スタッフへの対応につき
悩みを持たれている方も相当多いです。
平行線を辿る議論。原因は「前提」が違う
私なりの回答としては
「愛を持ってミャンマー人と接し、
目的を揃える努力をする。」
「自分にできることをする。」
現時点で持ち合わせてるものとしては
ここにしか回答はない、と思っています。
甘い、と言われる方もいるでしょう。
でも、やはりそこしかないかと。
ちょうど、知り合いの方が
「大切にしてたスタッフが退職した。」
そんな事を嘆いていました。
愚痴るトーンではなく。
それを受けて
同居人とあれこれ議論に。
そこで私なりに思ったことを。
ミャンマー人だから、とか
日本人だから、とか
そんなに関係なくね?
というお話。
退職する人には
その人なりの合理的な理由があります。
雇用主からすれば
おいおい、ふざけんなよ。
って思うでしょうけれど
当人からすれば、
至極まっとうな理由があるのです。
給料の問題であったり
任されている仕事量の問題であったり
当人にとっては
正当な判断基準があるのです。
当人からどう見えているか、は
こちらがどう見ているか、とは
まったく別物である可能性が高いです。
てか間違いなく別物でしょう。
雇用主としては
安くない給料を払っているつもり。
しかし、雇用主としては
仕事の質には満足しきれていない。
だから、
平均から見たらもうちょい安くてよくね?
と、考えてしまう。
一方で従業員としては
友達の方が給料が高くて、自分は少ない。
しかも、仕事としては
難易度も高くて、友達に比べてハード。
私は一生懸命頑張ってるし。
だから、
もっと給料をもらってしかるべきでしょ?
と考える。
前提がまったく揃っていない。
むしろ真逆。
その状態でいくら話しても
「平行線」を辿るのみ。
前提が揃わない限り議論は平行線を辿る。
議論の前提として「目的」を揃える
これは、どんなケースでも同じ。
仕事でもそうだ。
よく仕事で交渉していても
ん?!
と思うことがある。
前提が揃っていないと
そもそも議論が前に進まない。
何度も同じ議論を繰り返し
どれだけ話しても前には進まない。
これはよくあること。
だから、前提を揃えることが
極めて重要なのである。
議論を前に進めたければ
前提を揃えないといけない。
バックグラウンドまで揃えるのは無理だ。
当然、各人のバックグラウンドは違う。
育ってきた環境も違えば
過去の経験も異なる(本当は関係ないと思ってるけど)
周囲にいる人も違う。
だから、同じ事象を目の前で見ても
捉え方、反応、その後の行動は全く違う。
同じ人でも体験する時期が違えば変わる。
まったく同じ人生を生きた人は
この世の中に1人としていないのだ。
よってバックグラウンドを揃えるのは無理。
しかし何かを進める上での
「前提」である
「目的」を揃えることはできる。
「目的」を揃えるだけで
前に進むケースはかなりある。
例えば
「真剣にいいサービスつくろうぜ」と
目的と共有したとしよう。
そうすれば
「役割分担して進めよう」となるだろう。
何もしないで役割だけ振るよりは
圧倒的に
当事者意識を持つ可能性が高まる。
それも1つの方法なのだ。
どちらにも道理がある。
正しい、間違いはない。
それぞれに正当な理由がある。
合理的な理由があるのだ。
デール・カーネギーの名著
「人を動かす」にもある通り。
「盗人にも五分の理を認める」と。
世間から悪いとされる盗人ですら
正当な理由を持って犯罪を犯す。
ああするしかなかった、と。
だから
一般人であれば
なおさら正当な理由がある。
というわけである。
だから
相手の考える「正当な理由」を
なんとかして把握して
相手と前提を揃えようとする
努力が必要なのだと思う。
100%合致しなくても
揃えようとすることはできる。
「目的」を共有することはできる。
何も手を施さなければ
前提が揃わないのは当たり前。
せめて「目的」を揃えようとする。
それくらいの一手を打つことは
できるのではないだろうか。
そこは、ミャンマー人でも
日本人でも同じだと思う。
ただ押し付けるのではなく
愛を持って接して
向き合って話をして
「目的」を確認してすり合わせる。
いきなりガツンと押し付けるのではなく
少しずつ、すり合わせていけばいい。
そうすれば
前提のうちの1つが揃うわけで
そうなれば、前に進んでいくはず。
自分にできることをやる。ただそれだけ。
とはいえ、
と反論したい人もいるだろう。
ここはミャンマーである。
教育レベルだとか
文化的背景だとか
言葉の壁だとか
育ってきた環境だとか
色々な違いがあり障壁は大きい。
日本人 同士よりも圧倒的に高い壁がある。
けれど、大前提として
その全部の壁はクリアできない。
そこは無理。
日本人同士でも無理なのだから。
ただ
だからといって
何もしない、のは違うだろう。
イギリスのことわざ に
You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.
馬を水辺に連れていくことができるが、馬に水を飲ませることはできない。
そんな言葉があるらしい。
嫌われる勇気にも登場する言葉だ。
自分にできること、と、できないことがある。
例えば、馬に水を飲まれるために
水場に行っても水を飲んでくれないなら、、、
何ができるだろうか?
運動させて喉を乾かすことはできる。
綺麗な透き通った水の用意もできるかもしれない。
ただし、とはいえ
最後に水を飲むかどうかを決めるのは馬である。
では、どうするか?
自分ができることをやるしかない。
諦めるのではなく
突き放すのではなく
ただ嘆くのではなく
天に祈るのではなく
自分ができることをやる。
それしかないかと。
時間を取って話す場を設ける
とか
ちょっと声掛けする
とか
自分にできることを
できる範囲でやるしかない。
綺麗事に過ぎないかもしれないけれど
それって
日本でも、ミャンマーでも
ベースは同じなんじゃないかな。
そう、私は思っている。
ミャンマー人マネジメントの話なのか
なんだかよくわからなくなりましたが。。
ただやはり思うのは
愛を持って接することで
前提である「目的」を揃える努力をする。
その上で
自分にできることをやる。
それしかない。
人が、環境が、と嘆いても仕方ない。
自分にできることをやる。
それしかない。
そこから先は、相手の課題だ。
嫌われる勇気 を思い出すなー。
やっぱりこの本、名著。